いつか分からないけど、一つの答えを見つけたい。信じる人と、信じない、信仰を持っていない人の違いを。


タイトル:邪宗門
著者:
高橋 和巳
紹介者:菅原 裕
内容紹介:Amazonより
昭和六年、母を失くし「ひのもと救霊会」を訪ねた少年・千葉潔は、教団に拾われた。やがて時代は戦争へと向かうなか、教団は徹底的に弾圧を受け、教主は投獄される。分派、転向、独立…壊滅へ向かう教団の運命は?一九七一年三九歳で早逝した天才作家が『朝日ジャーナル』に連載した日本文学の金字塔。


タイトル:大本襲撃 – 出口すみとその時代
著者:
早瀬 圭一
紹介者:菅原 裕
内容紹介:Amazonより
「大本を地上から抹殺する」。昭和十年、特高は宗教団体・大本の教祖、出口王仁三郎とその妻で二代教主すみを不敬罪、治安維持法違反で逮捕。信者らを大量に検挙し、苛烈な拷問を加えた(第二次大本事件)。なぜ彼らは国家に狙われ、弾圧されなければならなかったのか。教団を支えたすみと王仁三郎夫婦の人物に迫りながら、知られざる昭和史の闇を抉り出す異色のノンフィクション。

← 紹介者の「菅原 裕さん」ってどんな人?

「邪宗門」はですね、これも人生のベスト3に入る本で、大学の先生に勧められて読んだ本です。大本教という明治の終わりに京都で起こった新興宗教があるんですが、出口なおという女性が神がかりにあって、その出口なおさんが大本教を作りました。

娘婿の王仁三郎( おにさぶろう )が二代目教主で、邪宗門は大本教をモデルにした高橋和巳の小説なんですけど、もうこれがすごい面白くて。

ここ暫く読んでなかったので細かい経緯を忘れましたけど、千葉というただの大学生がだんだん大本教に染まっていって、ついに千葉は教祖になるんですよ。でも、いろいろな弾圧を受けて最終的にはダムに身を投げて死ぬんです。

何がそんなに面白かったのか?って考えるんですけど、ちょうど私が入っていた大学のゼミに学生結婚してる子がいて、その子の旦那さんが新興宗教の家庭の人で、結婚してから彼女はその事を知ってすごい衝撃的だったと。だけど普通に結婚生活は続いていて。いやぁ、面白い人がいるもんだなと。

彼女はこの邪宗門を題材に卒論を書いていて、その友達のやっていることにすごく興味を持って。これは小説としては非常に面白かった。

その大本教っていうのは宗教としての特徴とかは?

現在、大本教のホームページには「天地のすべてのものは関連し統一され、しかも絶えず動いている。そこには絶大な統一意志が働きかけていて、この絶大な意志の所有者が「神」である。」とありますが、開祖のなおさんが最初に唱えたのは「三千世界の立替え立直し」でした。

貧乏な農婦が興した宗教で、とくに危ないことをやっていたわけではないけれど、どんどん信者が増えた。不敬罪にも問われ、ものすごい弾圧を受けました。でも今も大本教は、全国に信者がいます。

邪宗門と合わせて大本襲撃、という本も紹介したくて。もう何十回も読んだ本です。

大本襲撃ってタイトルはその弾圧の事も含めての?

そうそう。これは弾圧のことをノンフィクションで書いています。

でもノンフィクションも、ノンフィクションって言ってるけど、なんか疑いの目を持つようになったのは、「A(オウム真理教を追ったドキュメンタリー映画)」を撮った森達也さんの「放送禁止歌(菅原さんが次に紹介する本)」を読んでからなんですけど。

なんか本の中では、その時代のその出来事をさも自分が見て来たかの様に書いてるけど、実際に見てるわけじゃないから。ノンフィクションは100%ノンフィクションって言えない場合もあるじゃないですか。

それでも、うーん、大本襲撃はまぁノンフィクションの類に入るんだと思うんですけど、疑いつつ読んだノンフィクションって感じかな。邪宗門は100%フィクションだと思ってるけど、ノンフィクションの要素がすごくあるフィクション。

邪宗門と大本襲撃を一緒に読んだのはすごい面白かったです。

本当の事が知りたいって思う。いつも。

あー、なるほど。

社会人になってから東京に住み始めて、BOX東中野(現・ ポレポレ東中野 )という単館上映の映画館を知りました。そこで森達也さんが「A」と「A2」というオウム真理教の映画を撮った時に、ちょうどBOXで上映がかかって。

彼はもともとTVマンで、ノンフィックスだったかな? 深夜の1時とか2時にやってる1時間番組を撮ってた時があって、そのドキュメンタリのシリーズの一つがこの「放送禁止歌」っていう本で。放送禁止歌ってご存知ですか?

いや、知らないです。

日本の放送協会で、例えば今でいうところの「ピー」っていう言葉が、えーとなんて言うんだろう、自主規制が入る言葉ですね。例えば「めくら」とか「きちがい」とか。で、誰がその放送禁止用語を決めてるか?というのを、森さんが追った本で。


タイトル:放送禁止歌
著者:
森 達也
紹介者:菅原 裕
内容紹介:Amazonより
岡林信康『手紙』、赤い鳥『竹田の子守唄』、泉谷しげる『戦争小唄』、高田渡『自衛隊に入ろう』……。これらの歌は、なぜ放送されなくなったのか? その「放送しない」判断の根拠は? 規制したのは誰なのか? 著者は、歌手、テレビ局、民放連、部落解放同盟へとインタビューを重ね、闇に消えた放送禁止歌の謎に迫った。感動の名著、待望の文庫化。

昔って泉谷しげるとか、高田渡とかギリギリの歌詞を書いてる。ヨイトマケの唄も昔、放送禁止歌だったんですよ。

そうなんですね。

高田渡の「自衛隊に入ろう」とかね。あと、 岡林信康さんが歌った「手紙」という曲があって。

「手紙」は被差別部落出身の女性が部落外の男性と結婚しようとしたけれど、出自を知った男性の家族の反対にあい、結婚が叶わなかった。身を引くけれど、悔やんではいない。部落に生まれたなにが悪いんだ、という内容です。

これが放送禁止歌になっちゃったんですよ。

で、だれがそれを決めてるのか?って言ったら、結局森さんが出した結論は「自分の規制であって誰もそんなことは決めてない。」

へぇぇぇ。

今はもう別にテレビ局に放送禁止歌リストっていうものがある訳じゃない。

自主規制なんですね!?

かつては民放連による「要注意歌謡曲指定制度」というものがあったそうです。歌詞の内容でAとかBとかランク付けがされていた。だけど法的に「放送をしてはいけない」という効力があったわけではない。

だから自分の “常識” だか “良心” で線を引いて、「これはまずいんじゃない?あそこの局で放送禁止になったらしいよ。」となると、それはもう放送禁止歌。。。というのが常態化していたと。

はぁ。

だからメディアって怖いなって。流される大衆って怖いなって。

そうなんですね。なんか… えっ、例えば放送禁止歌はそうだとしても、放送禁止用語ってのはあるじゃないですか。あれはなんか委員会とかが決めてる?

ううん、そんな事は書いてなかった。法により明文化された放送禁止用語はなくて、「この言葉がダメ!」みたいなリストがあるとは言っていない。

へぇぇぇ!

それはすごく面白かったです。でもね、一応「日本民間放送連盟放送音楽などの取り扱い内規」っていうのはあって、その中に「歌謡曲その他の音楽については、公序凌辱に反し、または家庭、とくに青少年に好ましくない影響を与えるものは差し控える。」とは書いてあるんですよ。でもそれが、どういう言葉か?ってのは書いてない。

ほぉー。

1983年(88年という説もあるが)までは、「要注意歌謡曲リスト」なるものがあったそうです。

要注意歌謡曲!

ピーが入る様な歌詞の曲ですね。でもそれも83年(または88年)以降はリストの更新がされていないため、廃止になったとされています。つまりそれ以降は各放送局の自己判断、ですよね。

その概念は誰が作っているのか?というのを追った番組で、番組も面白かったけど、活字化された本も面白かった。余談ですが、ドキュメンタリーと本を通じて知ったそのものずばりのタイトル「放送禁止歌」という曲が、凄く響きました。繰り返しのメロディーが四字熟語でひたすら並ぶ歌詞ですが、上手いなぁ、と思いました。

森さんの1時間番組シリーズで、他に「小人プロレス」の番組と、あと「動物実験」 の話しと、昔たしかに言われてみれば小学校って教壇ありましたよね?一段高い。先生はあそこから私たちを見下ろしてたけど、あれが最近なくなって、なぜ教壇が無くなったのか?という4本立てですごく面白かった。

それで森さんていう人はすごい好きになりました。こういうとんがった、私からしたらとんがったものを撮ってるように見えたから。これがノンフィクションが好きになったきっかけですね。AとA2と放送禁止歌が。

森さんがA2を撮ったときにオフ会があって、教団幹部だった上祐史浩さんが来たんです。会ってみたらごく普通の人で、全然怖くも無いし、変わったところといえば「はだしで歩いている」ということだけでした。

やっぱり知らないってことは間違ってるって思って。会ってみて話したら、会話もちゃんと成り立つし、もちろんヘッドギアとか着けているわけじゃないし。「なんだ、普通なんだな」って。だから、自分の目でものを見ないといけないってすごく思いました。

そうですね、自分もAとかA2観た時に、やっぱり結構衝撃的だなと思って。なんかその、当たり前なんですけど、そこにいる人たちはそこにいる人たちの普通の生活があって。

メディアとかで取り上げられている「とても恐ろしい集団」みたいな、もちろん犯罪自体は悪い事ですけど、オウム真理教にいる人たちはそこで日々ご飯食べて、っていう普通の暮らしがあって。

なんか戦争とかの話も似てますよね。戦争とかしてても、普通にそこには暮らしがあって、そこの部分を何も見ない、知らない状態で「悪」みたいな扱いをして叩くっていうことはやっぱり変だなと思った覚えがありますね。

なんか選挙の度に思うんですけど、自分で考えないで「自民党だから入れてくれ。」とか。うち、実家のすぐ裏に某大手宗教団体の人が住んでいて、その事を知らなかったんですよ。

だけど思えば選挙の度に、裏のおばあちゃん大好きだったんですけど、いつも選挙の時期になるとほんとうに、うちの裏の勝手口をトントントンと叩いて、うちの母に「選挙の時は○○党をお願いね。」って言いに来るの。

選挙権がない時は分かんなかったんですよね。大人になってから「なんでおばあちゃんいつも○○党をお願いしにくるの?」って母に聞いたら「おばあちゃん(某大手宗教団体)だから。」って。私はその時までその宗教を何にも知らなかったんです。

政党だから投票してとか本当に意味が分からなくて。今回の選挙もそうでしたけど、誰が何を言ってるか?誰が何をできそうか?で選ぶものなのに。知らないって怖いなと思いました。

オウムも知って批判するのはいいんだけど、ありましたよねいろいろ。パナウェーブだっけ?全身白いの着てた人達とか。思えばいっぱいいたんだけど、TVって都合のいいように放送するから。知らなさ過ぎるなって思って。

オウム真理教の中の人たちがなんでああいう犯罪を犯してしまったのか?っていう本って沢山出てるじゃないですか。

一回も読んだことない。

あっ、ほんとですか。そういう研究みたいなのたくさんあって、ほんとにその「紙一重だな」って思うんです。

もともと宗教に入る、オウム真理教に入るときは別になんか悪い事しようと思って入るわけじゃないじゃないですか。そういう人たちが宗教に入って、修行をして、閉ざされたコミュニティの中で生活をして。

その閉ざされたコミュニティの中での圧力とか、人間関係みたいなものがあって、尊師から気に入られたいという欲があったりして。「これをやれ」と言われた時に、自分で間違ってると思っていても、それをやるっていう決断をしてしまったりとか。本当にそれを信じてる人もいるし。

でも、普通の人たちと「何か決定的に違うか?」といったらそうでもなくて。本当に誰にでもそういう可能性があって。そういうのって怖いところでもあるし。

私ね、理解したいんですよ。宗教を信じてる人を。

どうして自分は信じないのに、信じている人がいるのか?ってことが。邪宗門を読んだときに私には信仰がないって思って。神様にも祈らないし。まぁ、神社に行けば祈りますけど、それは本当に嘘じゃなく、家族の幸せと世界の平和を。でも、それは信仰ではない。

私には宗教がなくて。浄土真宗なんです、実家は。だけどお墓も辞めちゃったから、お寺がないんです。樹木葬になっちゃったので。

もともとお寺があってもなくても、浄土真宗を理解していないし、南無阿弥陀仏って普段から唱えているわけでもないけど。

そうですねぇ。

だからその、クリスチャンも含めて、大本教もそうだし、オウムもそうだし、信じるって事が理解できなくて、自分には。それを理解したいなって思ってます。今でも。

なんかですね、信じるって事に関してはずっと考えていて。あの、考え続けるってことをする人と、考え続けるってことが面倒くさくなる人がいるんだと思ってるんですね。それで、信じるって何か?っていったら、自分の判断というのを捨てるわけです。

あぁ、自分で決めないんだ。

そうです。でも、自分で決めて判断し続けるって結構大変な事だと思うんですよ。何かがあった時に、これは正しいのか?正しくないのか?とか、自分はどっちを選択すれば良いのか?ていうのを常に判断し続けるっていうのは大変な事だったりして。でもそれが大変だと感じない人もいて。

そういう人たちの中で、一回これが「答えなんだよ。」ていうのがあって、それを信じたら大丈夫だよって言われたときに、その、たぶん救われる人たちがいて。

悩まなくていい状態になる。

はぁー、そうか。

悩まなくて良くて、そのまんま「これが答えなんだ」というのを追いかけていくみたいな感じになって。もしその「これが答えなんだ」が悪い事だったりするとオウム真理教みないな事になるし、そうでない場合もあるし。だけど、菅原さんとかは「自分で考える」っていう事に価値があるって思ってる。

私ね、悩みたがりで、考えたがりだからたぶん安易に人に助けてもらおうとか思わないんですよね。でも、もしかしたら今のお話しでいくと、疲れちゃった時に、いきなりふっと 「あぁ!」って100万の壺とか買っちゃうかもしれないじゃないですか。分かんないですよね(笑)。

そうですそうです(笑)。

だからその差をね、知りたいなって思います。

なんかその、だんだんと自分が信じたものっていうのが「やっぱり違った」ていうのを更新するのが年をとるごとに億劫になるみたいで。

あぁ、みたいですね。

年をとると頭が固くなるって話がありますけど、昔の時代で通用した事がそのママいつまでも正しいと思っていて、それが更新されない状態になってる。でも、更新しようとすると今まで 「こうだ、これが正しい。」と思っていた自分自身を否定する事にも繋がるじゃないですか。あっ、やっぱ違ったわって。

全然いい、それで。

そう、そうなんです(笑) 。

私も本当にそう思っていて、むしろ常に更新し続けたいと思ってるんですね。常に自分でどちらか、良い悪いも含めて判断したいと思っていますし。だけどそうじゃない人もいて。

うーん、そうなんだ。なんか、そうなりたくないなって切に願います。頭固くなったとか、もう持ってるものしか信じないとか、昔の事否定されたら怒るとか、ぜったいそうなりたくないって思う。

だって時代は変わって当たり前だし、環境も自分が生まれて40年で随分変わったし。変わることが楽しい事だと思うので。変わる事が嫌だって思いたくないですね。

だから常に目の前に目の前のことだけであるから、それだけでいいんですよね。昔は大事だけど、思い出も何もかも。でも今生きてるので、今に対応したいなって思う。でももしかしたら、こんな事言ってて70才になったら、あと30年後、すんごい頭固くなったら残念だなと思います。自分で。 ほんとそればっかりは分からないですよね。

分からないことなんですよね。でも、面白い… 面白いというか、よく考えます。宗教を信じるということを。もちろん宗教の悪い面だけでなく、良い面もあって。

あると思います。

それがある事によって「善く生きる」という生き方を追求してる人たちもいるし。

そうですね。自分に規律を与えるとかね。

それこそ、リトル・トリーのような、宗教では無くても大切な教えがあって、それと一緒に生きるって大事なこともあるし。でもなんか自分自身は「これが答え!」っていうのは一旦自分で考えたいですね。本当かな?って。

いつか分からないけど、一つの答えを見つけたい。信じる人と、信じない、信仰を持っていない人の違いを。

今お話しを聞いて、あぁ確かに考える事がめんどくさくなっちゃった時にすがれるものって楽だな、って思うけど、まだほんとに自分の中でストンって来ないから。それがストンってくるときが来たらいいなって思います。


お話しを伺った感想を少しだけ:

ノンフィクション的な要素を含んだフィクションと、疑いながら読んだノンフィクション。邪宗門と大本襲撃という2つの本を通して菅原さんが見つめた大本教、宗教という存在。オウム真理教のノンフィクション映画、A、A2で有名になった森 達也さんの放送禁止歌も含めて、菅原さんの一貫した「本当のことを知りたい。」という生きる姿勢を作った3冊なのかなと。

オウム真理教について私自身が話している「閉ざされたコミュニティの中で … 自分で間違ってると思っていても、それをやるっていう決断をしてしまったりとか …」というところを読みながら、これって学校のいじめなども一緒だなと、はたと気づきました。いけない事だって分かっている筈なのに、閉ざされたコミュニティの中で正常な判断力を失っていくこと。誰にでも起こり得ることで、人という生き物の脆さ、危うさを感じました。


菅原裕さんが紹介してくれた大切な本の一覧はこちら

1,「長くつ下のピッピ
2,「ワーズワースの冒険
3,「リトル・トリー
4,「邪宗門」「大本襲撃」 「放送禁止歌
5,「錦繍」「手から手へ
6, 「Michi みち