会社員を2年で辞めて日本刺繍の先生に弟子入りしたのに、リーマンショックのあおりで弟子を辞めなくてはいけなくなり、それから山小屋に住み込みで働いたり、福島でボランティアをしたりと自分の「やりたい」に素直に生きてきたら、小田原という街を人に伝えることが仕事になった人。

About


名前:菅原 裕(すがわら ゆう)
職業:会社員/株式会社小田原ツーリズム
年齢:40代
性別:女性

好きな事:
山にのぼる。海辺でシーグラス拾い。オーケストラの生演奏を聴くこと。

好きな食べ物を一つだけ選ぶとしたら何ですか?:
黄身だけのたまごかけごはん

「本って面白いな!」と思った最初の体験、きっかけ:
マンガ日本の歴史や日本の偉人シリーズ、恐竜図鑑、『スイミー』や『カラスのパン屋さん』など、家に豊富にあった本が読書への入り口だった。

今挑戦していること、今後やってみたいこと:
月に1度のペースで私信的通信を発行している。9月1日に旅行業務取扱管理者の試験を受けるので勉強している。年内に「なぜ文化財や歴史的建造物は遺さなくてはいけないか」というテーマで論文を書くことが目標。

菅原さんの簡単な経歴
女子大の国文科を卒業 → 編集プロダクション勤務 → 日本刺繍の先生に五年間弟子入り→ 山小屋での住み込みアルバイト生活 → 震災後に福島県相馬市で住み込みのボランティア → タウンニュース社での記者生活→現職ではインバウンドビジネスに関わる観光誘致的なお仕事を担当

Interview

まずは今のお仕事のことを教えて頂けますか?

一応会社はざっくり観光業に入るのですが、私自身が観光業をやるのは初めてです。簡単に職歴だけを紹介すると、国文科を卒業後編集プロダクションで2年弱働いていました。講談社が持っている舞台関係のコラムを書いたり、当時講談社がやっていた「100冊シリーズ」に関わる取材などをやっていました。

その会社を2年で辞めて、全然違う方向に行きまして、日本刺繍という着物とか帯に針と絹糸で刺繍をする職人さんに5年間弟子入りしていました。もともと作ることがすごい好きで、編み物とか木工とかが好きだったんです。刺繍は、祖母が毎日着物で過ごす様な人で、私が一歳の頃に亡くなっているんですが、そういうものに触れる機会が多かったので興味を持っていました。

おぉ… 本当に全然違う方向に進みましたね。

編プロを退職後、刺繍でご飯を食べれるようになりたいと思い先生にお願いしたんですが、昔の徒弟制度みたいに衣食住を用意して貰って弟子入りというわけにはいかないので、先生から「自分で一カ月暮らせるようにしてから来い」と言われて仕事を探しました。派遣の仕事は時給もいいし、仕事も一杯あったのですぐに仕事を見つけて、週4日で派遣の仕事をしながら残りの3日を弟子として修業するという日々を5年間過ごしました。

5年間もやればまぁ、それなりに上達もするんですが、そのタイミングでリーマンショックが起きまして。本当に、びっくりするくらい状況が変わってしまって、弟子として残る事が難しくなり弟子を辞めることになりました。

その後、2年間ほど派遣をしながら東京にいたのですが、それから山小屋に行きました。

山小屋に行きました??

はい、山登りが趣味だったんです。20代の半ば頃から。それで「山で暮らしてみたいな」と思ったんです。

またすごい突然ですね。20代後半の時ですか?

いえ、30、31才の時ですね。東京に10年暮らしてみて、もともと神奈川県の南足柄という山とか海とかがすごい当たり前にあったところで育ったので、物や人に溢れた、自然が無い東京は自分には合わないな、という事に気づきまして。それから地元に帰ろうと思ったのですが、まだ帰るタイミングじゃないなと思っている時になんとなく「山小屋」って会社のパソコンから検索していたら、インクノットというサイトで山小屋のアルバイト募集を見つけまして「山小屋で働こう!」と決めて応募しました。

自分のアパートの荷物は実家に送って、自分はリュック1つで日本で2番目に高い山、北岳に行きました。夏の営業だけのところなので半年間そこで暮らして下山したのですが、「また山に行きたい!」とそのあとすぐに長野県の白馬の方にある山小屋に行きました。それで、山小屋で暮らしている最中に東日本大震災がありました。

はい。

東北での地震のあと長野でも地震6強の地震があり、雪崩が起きてスキーヤーが巻き込まれてしまったりして、世間の自粛ムードなどもあり山小屋にお客さんもほとんど来ない状態で。このママここにいて悶々としていても良くないと思い一旦南足柄の実家に帰りました。

その時、小田原市が福島県の相馬市に市民ボランティアを派遣するのでメンバーを募集している、という記事を見つけまして、とくに応募条件なども無かったので2011年5月に1週間、相馬で泥かきをしました。

相馬でのボランティアを終えて、石巻に住んでいた友人の安否を確かめて帰ってきたのですが、どうしても相馬の避難所の人たちが気になってしまって。避難所ではシダックスの仕出しのお弁当とかがあって、それを避難者の人たちが当番制で配るような形だったんですが、お年寄りや子どがいる人もいて難しい場合もあるので、避難者の人たちに頼まれて朝晩ご飯のお手伝いをしていて、当たり前なんですが、すごい仲良くなるんですよね。避難者の方々と。

なので、福島から帰って来て2日後に、今度は一人でリュック背負って相馬の避難所に向かいました。その避難所が6月17日に解散するまで、避難所の端っこに寝泊まりしながら給仕のお手伝いなどをしていて、避難者の皆さんの今後の住む場所や身の振り方が決まって、最後の一人が避難所を後にするまで残って見送りました。

震災があってすぐの事ですよね?

はい、そうです。それからまた地元に帰って来て「これからどうしようかな?」と考えている時に山小屋の人から少し手伝って欲しいと言われて1カ月ほど手伝いに行ったりしたのですが、山小屋の繁忙期も終わって落ち着いたのでそれから職探しをしました。

新聞を読んでいたら地域情報誌2社が正社員を募集していて、もともと紙媒体がとても好きだったのと、小さい頃から読んでいた媒体だったので「これいいな!」と思って履歴書を送りました。

タウンニュース社から採用の連絡を頂いて、それから8年間、タウンニュースで会社員をやって今年の1月に退職し、現在の仕事に就きました。タウンニュースでは小田原と厚木にいたんですが、小田原ではしょっちゅう清閑亭でサボっていました。 凄く良い上司だったので 、サボっている事を上司に隠さず伝えても「情報収集してたんだよね。」と受け入れてくれる、とても恵まれた職場でした。

タウンニュースは街に浸かりながらする仕事で、小田原のあとに厚木に異動したのですが、生活の基盤を小田原に戻したい、という気持ちを優先してタウンニュースを退職し、現在の仕事に就きました。

というのが、簡単な私の経歴の紹介です。

ありがとうございます。今のお話しを聞いていてずっと思ってたのですが、きちんと時系列でいろいろな出来事を覚えていてすごいですね!私はそういうのが本当に苦手で、菅原さんは今のお話しを40回位別のところでしているとかじゃないですよね?

してないです(笑)そうですかね?自分の事なので覚えていますよ。

そうですか。いやー、本当にすごいな。それと、理路整然とした淀みない話し方が印象的です。

自分では全然分からないです。でも結構人間的にはこんがらかって生きてますよ(笑)。あっちこっち迷いながら生きています。よくメンドクサイやつと言われますね。

次回「菅原裕さんはどんな子供だったの?」に続きます →